命あればこそ

(著) 棚倉彦一

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作品詳細

ー本文よりー
筆者は奥飛騨の小さな寒村で生まれた。水田の少ない部落では、痩せた石コロだらけの畑を耕し稗や粟などの雑穀を栽培して、主食は稗飯ばかりの暮らしだった。そんなところへ「満洲開拓移民」と言うとてつもない話が持ち込まれた。
それは昭和二年に起きた金融恐慌(渡辺銀行騒動)に端を発した昭和恐慌で、国内が疲弊する中で村も疲弊する経済に苦慮していた。そんなところへ持ち込まれた「満洲開拓移民」は願ってもない救世主だった。村では一早くその計画を取り込んで、経済更生計画の方策として推し進めた。筆者たちは昭和十九年五月、その計画の中で満洲へ送出された。
しかし、開拓地へ入植してから僅か一年三ヶ月後の昭和二十年八月九日未明、突如ソ連軍の進撃が始まり、開拓地は忽ちその戦火に追われていった。入植者は築き始めたばかりの開拓地を棄て、着の身着のままで百二十キロ余り後方の関東市(現延吉市)へ避難した。避難先は関東在満国民学校だった。そこへ辿り着いて二日後、それは昭和二十年八月十五日の正午だった。校庭に持ち出されたラジオから、天皇陛下の玉音放送が流された。内容は祖国の敗戦を伝えるものだった。それまで「鍬の戦士」として誇らしかった開拓民は、忽ちその立場が逆転し、不法な侵略者の汚名にまみれ、孤立無援の状態に陥った。それは正に「移民は棄民」というに相応しく、信じた祖国から見捨てられた瞬間だった。

ー悲劇の中にも希望があったー
満州開拓団として壮絶な体験が綴られる自分史。
そこは新天地だったのか。

著者プロフィールーーーーー
棚倉 彦一(たなくら・ひこいち)

昭和5年生まれ、岐阜県出身。
昭和19年 満洲国吉林省琿春県純義村朝日開拓団入植
昭和20年8月 ソ連軍侵攻で延吉市へ避難 在満国民学校で終戦
昭和21年10月 引揚げ 中国コロ島出航 博多上陸 親戚の土木会社を振出しに小坂営林署など林業活動に就業
昭和27年 大臣コンロ本舗就職 昭和35年 退職
昭和37年 小川飼料高山出張所を開設
昭和39年 小川飼料本社の要請で犬山市へ転勤 48年退職
昭和42年 焼肉店開業 61年 新築を機に店名を『飛山』と改名
昭和49年 敷島紡績江南工場に就職 61年定年退職
昭和57年 『遠のく曠野の空』(萬友社) 発刊
昭和58年 中国残留孤児身元引受人として残留孤児家族5人招聘
平成4年 中国残留孤児身元引受人として残留孤児家族6人招聘
平成10年 扶桑町シルバー人材センター理事就任 14年 副会長就任 現在に至る
趣味:読書、カメラ、パソコン

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