松尾芭蕉と謡曲: 斜めから見た芭蕉
(著) 深澤力
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考えてみれば、「遊び」というのは奥深いもので、人生にとって極めて大事なものだと言えよう。言葉を五七五に並べて、それが深い世界を表現できるという俳句は、素晴らしい「遊び」じゃないかと筆者は思う。
正岡子規の俳句は結構ユーモアの感覚に優れているようである。子規といえば、いつも咳(せき)ばかりして「痛い痛い」と言って六畳一間に寝た切り、というイメージが湧くが、しかしそんなことは無く、子規の俳句は非常にユーモア感覚に溢れているように見える。
たとえば「糸瓜(へちま)咲いて痰(たん)のつまりし仏かな」という句がある。子規が亡くなる数日前の句である。庭に糸瓜(へちま)が植わっていて、花が咲いて実が成ったら水を取り出す。水は痰を切るのに効くといわれているからである。一人の男がその水を待ちかねて仏になってしまった、という意味の句である。もちろん一人の男とは子規自身のことで、子規は死に臨んでも自分を客観視している。本当のユーモアとはこうしたものであろう。
考えてみれば「俳諧」という言葉は「俳句」の源(もと)をなしていて、「俳」という字は「冗談」とか「おどけ」という意味で「諧」という字も同じである。だから「俳諧」というのは、どちらの語をとっても「ふざけ」とか「おどけ」ということで、生真面目なものではないということになる。
短歌はどちらかといえば「まじめ」なものだったのに対して、俳句はむしろ庶民のユーモラスな目で世の中を見る、人間を見るということだった。ということは、俳句はもともとユーモア感覚とは切っても切り離すことが出来ないということであろう。そういう訳で現代俳句にも、本来備わっているユーモアの精神をもっと生かした句があってもよいのではなかろうか。
著者プロフィールーーーーー
深澤力(ふかざわ ちから)
昭和12年 岩手県沢内村に生まれる
岩手大学卒業後 岩手県内の高校教師を勤める
平成10年 定年退職
日本哲学会会員
【主な著書】
『ヨーロッパ旅日記』(熊谷印刷)
『みちくさ半世紀』(杜陵印刷)
『沢内村とともに』(新風舎)
『能と謡曲のはなし』(アドベンチャー広告事務所)
【訳書】
『キケロとカエサル』(清水書院)
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